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sábado, 14 de diciembre de 2013

魔女の鉄槌とその周辺
―Whom for The Witch hammer(part Ⅰ),Witch or Heretic?

《魔女:それは誰でもそうであり、また、どこにもその様な者はいない》
 『愛の魔法』 白い帯のように見えるのは愛の呪文である。
バ=ランの名前不詳の画家、1480年頃、ライプティヒ造形美術館(AKG))
 アーサー王の妹、モーガン=ル=フェイ。アーサー王の伝説では、彼女は王の魔法使いマーリンの弟子であり女妖術使いである。中世以前の社会では魔法使いや妖術使いは重要視されたが、中世に至って教会はあらゆる魔術を、悪魔と結ばれるものとみなすようになった。
 アーサー王伝説を基に『アーサー王の死』を書いた、15世紀のイギリス作家トマス=マロリーが、女妖術師のモーガン=ル=フェイを魔女にしてしまったのは興味深い。(魔女の恐怖 シュレミー・キングストン 学研 船戸英夫訳 1977年 p28 Witches and Witchcraft by Jeremy Kingston)

 《魔女は、サバトという淫らなパーティに出席し悪魔と契ると、聖職者は信じていた。》
 
『サバトへの出発』ケヴェルドの版画 18世紀。
『四人の魔女』アルフレッド・デューラーAlbreht Durer. Four witches. Engraving. 1497.
『若い魔女』ウィールツ Antonie Wiertz (1806~65)Musee Royaux des Beaux-Arts de Belgique,Bruxelles I.

  《ギリシャ・ローマの神々といった異教への崇拝は、キリスト教がローマ国教になるや禁止され、教会聖職者らによって、神殿や聖なる樹木などは破壊・根絶されたが、迷信などとして人々の中に残った。》  
『マナイデス』ジョン・コリア 1886年 油彩、カンヴァス South London Gallery
                     『ディアナ』ルノワール 1867年 Diana,Renoir
『魔法の円』ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 1886年 油彩、カンヴァス
 The Magic Circle,Jhon William Waterhouse ( 1849-1917 ) Tate Gallery, London, England  
『まじない』ジョン・コリア 1887年 油彩、カンヴァス、
An Incanation,John Collier(1850-1934) Russell-Cotes Art Gallery&Museum,Bournemouth
  ”シリアでは、テオドレトゥスの形容を借りれば、「神の使徒、比類なきマルケルス」といわれた司教が、まさに使徒的な情熱に動かされて、アパメイア教区内の威容を誇る各神殿を打ち倒そうと決意した。
 しかしユピテルの神殿はすこぶる精妙かつ堅固に建設されていて、彼の猛襲にもよく堪えた。この神殿は丘の上に位置し、その四面のそれぞれは高い屋根に15本の、周囲が16フィートもあるどっしりとした円柱に支えられ、その円柱を組み上げている大石は鉛と鉄とでびくともせぬように固められていた。
 強靭鋭利この上ない攻め道具を使ってみたが効果がなかった。円柱の基部を掘り崩すほかに道なしとなったが、これを支える仮の木の支柱に火を放つと、円柱はあっけなく倒壊した。この攻撃の困難さは、黒悪魔の寓喩を用いて記述されている。
 つまり、キリスト教側の技術家たちの作業を、悪魔はある程度長引かせることはできても、挫折させ得なかったのだ。勝利に有頂天になったマルケルスは、闇黒の力に対抗してみずから陣頭に立ち、兵士や剣闘士らの夥しい一隊は教会の旗のもとに行進した。
 彼はつぎつぎとアパメイア(シリア西部にあった古代都市)教区内の村々や地方神殿を襲った。敵方の抵抗あるいは何かの危険の懸念がある場合には、この信仰の闘士は、跛のために戦うことも逃げることもできなかったから、投槍の届かない適当な位置に身を置くのが常だった。
 ところがこの慎重さが彼の命取りとなり、彼は憤激した農民らの一団の奇襲を受けて惨殺されたのだ。属州の教会会議は、聖マルケルスが神の大義のために命を捧げたのだ、と遅滞なく宣告した。この同じ大義の支持に熱意と働きぶりとで際立った動きを見せたのは、激怒に昂奮しつつ砂漠地帯から馳せ参じた修道士たち(リバニウスはこの黒衣の修道士郡を揶揄して、「この連中は象以上に食う。いや、それでは象が可哀相で、象はもっと節度を心得ている」旨を記している。)で、彼らは異教徒の敵意を買うには十分値したし、また彼らの一部は貪欲と節度知らずという非難を受けるにふさわしいかも知れぬ。
 貪欲とはものすごい掠奪をほしいままにしたゆえ、また節度知らずとは、彼らのぼろぼろの着衣、声高な賛美歌、ことさらに装った蒼白さなどに愚かな賛嘆を見せた民衆を食いものにして、やたらに口腹の欲を満足させたためである。
  「ローマ帝国衰亡史4」(E・ギボン、中野好夫・朱牟田夏雄訳 ちくま学芸文庫 1996年、p391-392)

《「異端者」美しき女性数学者ヒュパチアのなぶり殺しー科学的理性主義の死》
「ヒュパティア」チャールズ・ウィリアム・ミッシェル 油彩、カンヴァス
Charles William Mitchell, 1885 Laing Art Gallery,Newcastle upon Tyne(Tyne and Wear Museums)
ヒュパチア(ハイペイシア、Hypatia 370-415)
 「寓話は寓話として、神話は神話として、奇蹟は、詩的空想として教えなくてはなりません。迷信を真理として教えることも、一番恐ろしいことです。子供の心は、それを受け入れ、信じます。そして後年、大きな苦痛と多分、悲劇を経て、はじめてそれから解放されるでしょう。
 じっさい、人々は、生命ある真理のためと同じくらい熱心に、迷信のために戦うものです。その方が多いくらいです。迷信は実体のないもので、それを論破しようにも、つかみ所がないからです。けれども、真理は、一つの見解ですから、変わりうるものです」
(Hubbard 1908年 84頁 ヒュパチアの記述より) 
 ヒュパチアは、紀元370年ころ、当時、世界中でもっとも学問が栄えていたアレキサンドリアに数学者テオンの娘として生まれ、数学(天文学や占星術)、弁論術、身体訓練、美術、文学、哲学、科学を修めたローマ人・ギリシャ人の理想を体現したような美人で、数学・哲学者であり、人望のある教授でした。
 求婚者には「真理と結婚いたしました」と答えたといわれていますが、恋もしているようですしリン・M・オーセン女史は「適当な相手が見つからなかった」のだろうとしています。最後のアレキサンドリアの大図書館長などの要職を占め、彼女の教える数学は、 数世紀後のデカルト、ニュートン、ライプニッツの研究まで何も進歩がなかったほどであり、彼女と信条が異なるキリスト教の当時の歴史家さえ、彼女の性格と学識を大いに賞賛したといわれています。
 モザン(1913年 141頁)は、彼女は「古代女性の中で、詩におけるサッフォー、哲学と雄弁術におけるアスパシアに比すべき者で、女性の中の最高の栄光である。学識の深さ、才能の多面性において、彼女に並ぶものは、同時代人にはほとんどなく、プトレマイオス、ユークリッド、アポロニオス、ディオファントス、ヒッパルコスなど輝かしい科学者の間でも、特に異彩を放つ地位を占める資格がある」、と述べるほどだったのですが、その最後は、古代ギリシャの悲劇のように悲惨なものでした。
 ”彼女は数学者として有名であったのと同じ程度に、哲学者としてもよくしられていた。「ミューズ様」(学問の神様)とか、「哲学者様」という宛名の手紙は、疑問なく、彼女のところに配達されたという伝説がある。
 彼女は新プラトン主義と呼ばれるギリシャ思想の一派に属していた。この派の科学的理性主義は、支配的だったキリスト教の、教条的信仰に、さからうもので、キリスト教の指導者を、ひどくおびやかした。
 これらの敬虔派教徒は、ヒュパチアの哲学を異端と考えた。紀元412年に、キリルが、アレキサンドリアの大司教となったとき、こういう異端者を抑圧する組織的な計画を立て始めた。彼女の信条とオレステス(エジプトの行政長官で、キリルに対抗できる唯一の勢力の代表)との友好関係のために、彼女は、二つの党派間の政治的報復手段の人質として捕らえられた。
 キリルは有能な異端審問官であった。まず、彼は、民衆の情熱に火をつけ、彼を非難する者に暴民をけしかけ、ユダヤ教会堂を倒し、市の行政長官の地位と権威をほぼ完全に侵害した。
 彼の派の狂信者たちの荒れ狂う気分と、彼の行動の起こした政治的事件のため、紀元415年になると、自分の権益は、一人の処女の犠牲によって、一番完全に守られるだろうと確信するようになった。彼の命令で、狂信者の暴徒が、大学の講義に行く途中のヒュパチアに襲いかかり、馬車から引きおろし、髪をすべて引き抜き、つづいて、なぶり殺した。エドワード・ギボンはこう書いている(1960年 601頁)。
 「女性の美しい花盛りに、知恵が成熟した時に、しとやかな乙女は、恋人たちを拒否し、弟子を教え導いた。身分も高く、才能にも優れた、もっとも華々しい人々が、この女性哲学者を訪れることを熱望した。キリルは、彼女の学校の戸口に群がる馬や、供の奴隷の華麗な行列を、ねたみの目で眺めた。
 行政長官と大司教との融和を妨げる唯一の障害は、テオンの娘であるという噂が広められた。そして、邪魔物は、たちまちとり除かれたのだった。レントの聖なる季節の運命の日、ヒュパチアは、馬車から引きずり下ろされて、衣類をはぎとられ、教会に引きずられ、残酷にも、朗読者ペテロと(訳注 朗読者ー聖書を朗読する資格がある平信者)、残忍な無慈悲な狂信者の群の手で、虐殺された。
 彼女の肉は、鋭いかきの殻で骨からはがされ、ぴくぴくしている手足は、炎に投げこまれた。
 充分なわいろにより、公正に審問し、刑罰を下すことは、中止された。しかし、ヒュパチアの虐殺は、アレキサンドリアのキリルの人物と宗教に、ぬぐいがたい汚染を残したのである」
 (訳注 岩波文庫 ギボン「ローマ帝国衰亡史」七巻にこの部分が入っている)。
 オレステスは、ヒュパチアの無残な死に責任を感じ、犯罪人を法廷に引き出すため、できるだけのことをした。ローマに、彼女の死を報告し、調査を頼んだ。それから、自分自身の生命の危険を感じ、市を離れた。
 調査は、「証人がいない」ということで、何度も延期された。最後に、大司教は、ヒュパチアは、アテネにいて、何も悲劇もなかったのだと発表した。オレステスの後継者は、大司教に協力させられた。ある歴史家が述べたように、「警察方式として、独断主義が、最高位を占めた」。

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